渋沢栄一は艶福家(女好き)だった!女遊び等女性問題の衝撃エピソードまとめ!

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渋沢栄一

現在絶賛放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として話題の渋沢栄一

 

渋沢栄一は実業家として500社近くの会社の設立や育成の携わり「日本資本主義の父」と呼ばれる程の偉人です。

その渋沢栄一は現在放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、2024年から導入される新紙幣の1万円札のデザインになる事が決まっているこれから大注目の日本の偉人なのです。

 

そんな偉大な歴史上の人物である渋沢栄一が無類の艶福家(女好き)だったという事をご存じだったでしょうか?

大河ドラマの主人公になるような人物なので、渋沢栄一が女好きだったという事を意外に思われた方も多いのではないかと思われます。

渋沢栄一自身は自分の女好きについてこう発言しています。

『明眸皓歯(めいぼうこうし)に関することを除いては、俯仰天地(ふぎょうてんち)に恥じることはない』

これは

「美女(美しく澄んだ目もとと、白く美しい歯並びのさま)に関することを除いては、心にやましいところがないので、恥じることは何一つない、美女には勝てない。」

という意味で、「日本資本主義の父」と呼ばれた偉人も女性が好き過ぎて女性の美しさには勝てないと発言しているのです。

では女好きと言うけれど渋沢栄一の女性関係や女遊びは実際どのような感じだったのか気になる所だと思われます。

 

という事で今回の記事では渋沢栄一の女好きはどんな感じだったのか、その内容や仰天エピソードをご紹介したいと思います!

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渋沢栄一の女性関係の内容とは?正妻のお千代だけではないの?

ではまず渋沢栄一は女好きと言われていますが、その女性関係はどんな感じだったのでしょうか?

渋沢栄一の女関係の情報をまとめてみたいと思います!

 

渋沢栄一には生涯で2人の正妻3人の妾(めかけ)、そして数多くの愛人がおりました。

正妻

千代

尾高惇忠の妹で、渋沢栄一とは従兄妹同士の間柄。

1858年12月に渋沢栄一19歳、尾高千代14歳の時に結婚し、4人の子供に恵まれました。

1882年7月14日にコレラを患い亡くなりました。享年42歳。

兼子

千代が亡くなった翌年の1883年に渋沢栄一の後妻(後添え)になりました。

兼子は豪商の娘であったが為替取引の失敗で家業が傾き没落。

その後に芸妓をしていた時に渋沢栄一と出会う。

渋沢との間には4人の子供を儲けました。

 

大内くに

千代が存命中に妾である大山くにと2人の娘を受け入れ妻妾同居している。

田中久尾

出身は大阪。深川福住町の自宅に同居。

鈴木かめ

元吉原仲の町林家の芸妓小亀。日本橋浜町の別宅に囲う。

 

愛人

愛人は何十人もいたそうで、愛人との子供の数は20人とも一説では50人とも言われている。

正妻と妾の違いは何?そもそも妾とは何?

まず渋沢栄一には正妻と妾がいました。その当時も現在同様一夫多妻制では無かったので戸籍上渋沢の妻は正妻の女性になります。

ではそもそも妾とは何なのか?

妾とは結婚している男性が正妻以外にも囲った女性の事で、妾との関係は不倫ではなく経済的な支援本妻公認でしています。

明治初期の法律では戸籍上は本妻と同等の2等身の立場であり法律的にも認められた存在だったのです。

戸籍にも「妾」と記載されそれは明治時代後期まで続いたそうです。

このような妾を持つ事ができたのは経済的に裕福な男性ばかりで「男の甲斐性」を示す存在だったそうです。

なので妾を持つというと現代の感覚では良いイメージは無いかもしれませんが、その当時は普通の事であり一種のステイタスだった訳です。

渋沢栄一が悪びれる事なく女好きでいれたのは、そういう時代背景があったればこそだと思われます。

妻妾同居は珍しい事ではなかった?

一番目の正妻である千代は妾であった大内くにとその娘を東京の自宅に受け入れ妻妾同居を許しています。千代

※千代の写真

その当時の感覚では妾を外で囲うのはイメージが悪かったそうです。

しかし妻妾同居の場合は「仕方ない」くらいのイメージだったそうです。

実際、千代は大内くにとその娘を受け入れていますが、外に妾がいるより、同居した方が千代にとっては良かったという事ですね。

この辺は現代に生きる私達にはちょっと理解し難いものがありますが、その当時の感覚だと妾と同居するという事はそれ程珍しい事ではなかったのです。

妾と愛人の違いとは?

愛人に関しては数多く存在しており、子供は正妻と妾・愛人の子供を含めると20人いたとか。

一説ではトータルで50人いたとも言われています。

渋沢栄一が生存中に出された個人全集には正妻との子供の記載と並行して何十人もいたとされる愛人との子供の情報も記載されていたそうです。

愛人に関しては妾と違って法律的に認められた存在では無く、正妻公認の存在でもなく、経済的な援助も受けられる存在ではありませんでした。

現在でいう所の不倫相手といった所でしょうか。

その不倫相手の子供の情報も自分の個人全集に載せてしまうあたり、渋沢栄一のおおらかな?性格が垣間見えるのではないでしょうか。

 

とここまで渋沢栄一の女性関係を見てきましたがとにかくたくさんの女性と関係を持っています。

渋沢栄一が人生最後に産んだ妾との子供は渋沢68歳の時の子供です。

その時渋沢はこう発言しています。

「いや、お恥ずかしい。若気の至りで……」

68歳で若気の至りも無いものだが、こういう冗談を言うあたり68歳とは思えぬ若々しさですよね。

愛人との子供に関しては渋沢が80代になってからの子供もいるそうです。

渋沢栄一はこのような名言を残しています。

渋沢栄一

渋沢栄一は自身のこの言葉通り実業家としても女好きとしても生涯現役だったという事ですね。

 

では次はその渋沢栄一の女好きであるが故の衝撃エピソードをご紹介したいと思います!

渋沢栄一の女遊び等女性問題の衝撃エピソードまとめ!

ではここからは渋沢栄一が無類の女好きであった事が分かるエピソードをご紹介してみたいと思います!

 

渋沢栄一女好きエピソードその1 逃亡中も女好き

渋沢栄一が江戸に出て倒幕・尊王攘夷の思想に傾倒していた頃のエピソードです。

渋沢栄一は義兄の尾高淳忠や従兄の渋沢喜作等と高崎城乗っ取り計画を立てるが頓挫します。

江戸幕府から追われる身となった渋沢は京都に逃亡します。

そんな緊迫した京都への逃亡の最中渋沢が立ち寄った場所があります。

それは、江戸随一の遊郭・吉原でした。

そして立ち寄った吉原の感想を趣味の漢詩にまとめていたそうです。

恐らく無類の女好き・渋沢栄一にとって吉原は憧れの場所だったのではないかと思われます。

行きたかったけど、これまで行けてなかった吉原にどうしても行ってみたい!という渋沢栄一の心の底からの欲求が伝わってきますよね。

その時、渋沢栄一が吉原遊郭で女遊びをしたのかどうかは分かりませんが、いずれにしても渋沢にとっては憧れの吉原に行く事が出来て大満足だったのではないでしょうか。

渋沢栄一女好きエピソードその2 新選組に襲撃される

渋沢栄一が高崎城乗っ取り計画の失敗後、逃亡先の京都に滞在していた頃のエピソードです。

 

渋沢栄一は逃亡先の京都に滞在中に正妻の千代に手紙を送っています。

「相わかれ候よりは一度も婦人くるい等も致さず全くくにの事のみしんぱいいたしおり申し候あいだ…」(元治1.10.5)

「婦人くるい」もしないで真面目にやってるよという内容ですが、この「婦人」には芸者や遊女は含まれていないというのが定説となっているそうです。

そんな渋沢は京都滞在中になんと新選組隊士の愛人に手を出して新選組と揉めています。

その自分の女に手を出された新選組隊士は7~8名程連れて渋沢を襲撃します。

恐らく渋沢が機転を利かせたからだと思いますが、新選組に命を奪われる事なく話し合いで事を済ませる事ができました。

しかし、女好きが災いしてあの新選組に襲撃されるというのも凄いエピソードですよね。

渋沢栄一は女好きによって命を落としていた可能性があった訳ですが、それに懲りてその後女遊びは止めにしてはいないので、その女好きはそう簡単に変わるようなものではなかったという事ですね。

渋沢栄一女好きエピソードその3 ヨーロッパの娼婦相手に民間外交?

1866年(慶応2年)渋沢栄一が幕臣としてヨーロッパへ渡航した時のエピソードです。

将軍・徳川慶喜の名代としてヨーロッパに赴いた徳川昭武の随員として共にヨーロッパに渡航した渋沢栄一はヨーロッパの進んだ文明に感銘を受けます。

このヨーロッパの先進的な社会を見聞する事は渋沢栄一が後年「日本資本主義の父」と呼ばれる偉人となる上でとても貴重な経験をとなります。

渋沢はヨーロッパの進んだ文明を熱心に見聞する一方、女好きの本領発揮で、ヨーロッパの女性とも関係を持ちます。

渋沢はヨーロッパで親しくなった娼婦にこう言います。

「これもなにかの縁なので、美人よ、私の元に来てください。そして両国の関係も親密なものにしましょう。ただ私は現在公務を控えているので、必ず後から日本に来てください」

それに対して娼婦は

「嘘もある程度までは許せますが、大嘘は人を怒らせるどころか笑ってしまいます。私が本当に海を渡ってきたら、貴男も困るでしょうから私はこの話には乗れません」

と言ったそうです。

このエピソードを見ると娼婦は渋沢の言う事が大噓だと怒るのを通り越して呆れている様子ですが、渋沢は後年、実業家として民間外交を活発に行い日本の外交に貢献しましたが、やってる事はそれと同じだと思いました。

渋沢は論語の教えである道徳を大切にしていたので、恐らくヨーロッパの娼婦に言った言葉は噓では無く本気だったのではないかと思います。

「両国の関係も親密なものにしましょう」と言っているので渋沢的には社会貢献になると思っていたのではないでしょうか。

ヨーロッパの女性が日本に来るというのは実現しませんでしたが、このエピソードで渋沢の女性関係にも渋沢の考えである「論語と算盤」が反映されていたのが分かりますね。

なので何事においても渋沢栄一の行動には「論語と算盤」の考えが基本的に反映されていると思うと、渋沢は決して現在日本で取り沙汰されている女性を蔑視するような見方をする人物ではないと思いましたね。

恐らく大河ドラマで渋沢栄一を主役にしようとした時に渋沢の女好きというのが一つの問題だったと思うのですが、その女遊びにしても道徳的だったという事で大河の主役の座に収まる事ができたのではないかと思いました。

とにかく渋沢栄一が著した「論語と算盤」が素晴らしい内容の書物なので、それが現代における女好きというマイナスイメージを緩和させさせたのかなと思いますね。

渋沢栄一は艶福家(女好き)だった!女遊び等女性問題の衝撃エピソードまとめ!

今回の記事では渋沢栄一の女好きはどんな感じだったのか、その内容や仰天エピソードをご紹介してみました!

 

渋沢栄一の後妻である兼子は渋沢の女好きについて

「大人(たいじん 渋沢栄一のこと)も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

と話しています。

兼子

※兼子の写真

この金子の発言はキリスト教は姦淫を禁じているが、「論語」には性に関する戒めがほとんどない事に由来しています。

兼子にそう言わしめる程渋沢栄一の女好きは相当凄いものだったという事ですよね。

 

渋沢栄一と女好きというのは切っても切り離せない存在だと思うので、その渋沢の女好きを大河ドラマ「青天を衝け」でどのように描くのかというのも一つの見どころではないかと思います。

 

それでは最後までお読みいただきありがとうございました!

 

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