忠誠心が高く勇猛果敢で結束が固いといわれる三河武士。
しかしそんな結束が固いとされる三河武士団の中で主君である徳川家康を裏切り出奔した家臣がいます。
それは家康の人質時代から仕えていた最古参の家臣・石川数正(いしかわ かずまさ)です。
家康の竹馬の友であり信頼も厚かった石川数正はなぜ出奔したのか?
この石川数正の出奔した理由については諸説あり、はっきりとは分かっていません。
なぜ出奔という道を選択したのかその理由は気になるところです。
ということで今回の記事では石川数正が出奔した理由について考察してみたいと思います!
石川数正とはどんな武将?
石川数正はなぜ出奔したのか?
その理由を考えるうえでまずは石川数正とはどんな武将だったのか?知る必要があると思います。
ということでここでは石川数正とはどんな武将だったのかご紹介したいと思います!
石川数正はどんな武将?その1 忠誠心が高い
石川数正というと徳川家への忠誠心がとても高い武将でした。
それを象徴するエピソードとしては永禄5年(1562年)に起こった三河一向一揆があると思います。
三河一向一揆が起こると家康を裏切って一揆に参加する家臣が続出していました。
その中には石川数正の父親などの親族も含まれていました。
そんな状況のなか石川数正は浄土宗に改宗してまで徳川方として戦っています。
当時の仏教は現在よりずっと身近な存在であり、人知を超えた存在である神仏への信仰心というのはとても強いものでした。
あの忠誠心が高いとされる三河武士団においても主君を裏切ってまで信仰を守る家臣が続出したのだからその当時における信仰の強さというものが窺い知れるというものです。
そんな状況のなか石川数正は改宗してまで家康の味方をしたのだからその忠誠心がとても高かったのが分かりますよね。
石川数正はその他
- 今川家の人質になっていた嫡男の信康と正室の築山殿を取り戻す
- 清州同盟では織田信長と交渉し清州同盟の成立の貢献
- 永禄12年には西三河の旗頭となる
- 姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどに参加して武功をあげる
などなど政治・軍事両面において徳川家に多くの貢献をしており、その点をみても石川数正の家康への忠誠心の高さというものが窺えますよね。
石川数正はどんな武将?その2 知性派の外交交渉人
石川数正というと武闘派が多いとされる三河武士団において数少ない知性派であり、外交交渉においてその能力を遺憾なく発揮した人物といえます。
- 前述した通り今川家や織田家との外交交渉を担当して活躍。
- 秀吉が台頭すると秀吉との交渉を担い、小牧長久手の戦いにおいては停戦交渉を任され停戦を実現させる。
この外交交渉歴を見ただけでも石川数正が徳川家の外交交渉を長年にわたり担ってきたベテラン外交官であるというのが分かりますよね。
この徳川家の外交交渉を担ってきた石川数正なので、徳川家の外の世界について多くの情報を持っており、その点において先進的で、時代の最先端の情報を知りえる人物だったといえると思います。
石川数正の出奔理由を考察してみた!
ここまで石川数正がどういう武将なのか見てきました。
- 徳川家への忠誠心が高い
- 知性派の外交交渉人
であることが分かりました。
そのことを踏まえて石川数正がなぜ徳川家を出奔したのか考えてみたいと思います!
なぜ石川数正は出奔したのか?
その理由については諸説ありますが筆者としては
秀吉との外交交渉を行うなかで外の世界を知り現状をよく理解していた石川数正は秀吉への従属を主張するなかで、現状をよく知らない酒井忠次や本多忠勝等の主戦論者の主張を退けるために出奔したのではないかという説が有力なのではないかと思いました。
つまり徳川家を守るために出奔し秀吉への従属を促したのではないかということですね。
小牧長久手の戦いでは秀吉との停戦を実現させた石川数正でしたが、この停戦は一時的なものでしかないことを分かっていました。
石川数正としては秀吉との戦いが再び起こる前に従属することを主張します。
外の世界をよく知る数正は秀吉には勝てないことを知っていたんですね。
しかし小牧長久手の戦いでは局地的には勝利していたこともあり酒井忠次や本多忠勝ら多くの武闘派家臣団は主戦論を主張します。
家康が従属を決断できない間にも秀吉は着々と秀吉包囲網を切り崩していき、家康の孤立化を達成してしまいます。
それでも家康は秀吉への従属を決断できずにいました。
それをみた石川数正は徳川家からの出奔という道を選びます。
この時石川数正は何を思って出奔したのか?ということが重要だと思います。
徳川家康の将来性に見切りをつけたのか。それとも大好きな徳川家を守るために自己犠牲の精神で秀吉に投降し主君を諫めたのか。
石川数正といえば前述の通り改宗してまで徳川の味方についた忠臣で、家康が人質時代から付き従っていた最古参の家臣です。その石川数正が、家康を見限って出奔したというのはどうにも不自然でなりません。
そう考えると後者の大好きな徳川家を守るために自己犠牲の精神で秀吉に投降し主君を諫めたのではないかというのが自然であるように思います。
石川数正が外の世界を知らない三河武士団の中にあって外交交渉を担当していたこともありかなり先進的だったというところも関係しているように思います。
おそらく石川数正は三河武士団のなかにあってその先進性のあまり一人孤立していたのではないかと想像できますよね。そして、周囲が自分の考えを理解してくれないという絶望感のなか独断で決めた決断が出奔だったのではないかと。
その行動は自分勝手と思われそうですが、自己保身のために周囲の人たちに足並みそろえることのみに専念するような不忠義者だったとは思えないんですよね。
もちろんこの出奔劇における石川数正の発言などは文献には残されていませんので、その出奔理由は分かってはいません。
その出奔理由が文献に一切残されていなかったというのも何か石川数正の潔さというかカッコよさを感じてしまうんですよね。
そう考えると筆者としては石川数正は節操のない裏切り者ではなく、偉人だったな~と思うのです(^^)
石川数正はなぜ寝返り・出奔したのか?その理由を考察してみた!【大河ドラマどうする家康】まとめ
今回の記事では石川数正が出奔した理由について考察してみました。
石川数正が出奔した後はどうなったのか?
家康は石川数正による徳川家内部の情報漏洩を怖れて秀吉に従属する道を選びます。
結果として数正の出奔が徳川家を守ったことになります。
その後徳川家が天下統一を果たすことを考えるとこの石川数正の出奔は褒め称えられるべきことなのに、裏切り者の誹りを受けるのですからちょっと悲しいですよね。
石川数正がもし徳川家を守るために出奔したのだとしたら、おそらく周囲のだれも理解してくれないけど自分の中だけでは出奔という行動に誇りをもっていたのかもしれませんよね。
そう考えると石川数正の裏切り者という歴史的な評価というものがもう少し見直されてもいいのかなと思ったりしますね(^^)
それではそれでは最後までお読みいただきありがとうございました!
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